さああ、と、霧にも似た雨がこの街を湿らせていく。雨に煙る静謐な空間は、けれど見回せば戦火の傷痕が痛々しく生々しい。身体は芯から冷え切っていて、わたしの右手を引くフランスの左手も、はっとするほど凍てついていた。
敵に蹂躙されて花の都の面影を失ったパリ。その瓦礫の散らばる路地をわたしたちは身を潜めて駆けていた。フランスは厳しい表情でわたしの手を固く握り締め、何も言わずにひたすら歩を進める。わたしも黙り込んだままフランスのあとに従った。
よく知っているはずの街なのに、自分がどこを走っているのかさっぱりわからなかった。彼の愛した気高く美しい都会はいずこへ消えたのだろう? そんな空虚な思いだけが鈍麻した思考のほとんどを占めていた。
やがて、とある裏路地の一角で立ち止まった。暗い地下へと続く急勾配の階段。わたしはここを知っている。そうだ、ここは――。
唐突に、、と名前を呼ばれた。同時に両肩に手を置かれた。見上げると、先刻から一転、フランスはいつもと何ら変わらぬ韜晦した微笑を湛えている。しかしわたしの両肩を掴む力は食い込むほどに強い。わたしは横目で階段を一瞥し、それから彼を見据える。
――薄々感づいてはいたけれど。

「わたしに……亡命しろ、と言うのね」

フランスはぴくりと眉を上げ、左手の親指でひげを撫でた。まあ、平たく言うとそんな感じ。しばしの沈黙の後、フランスは飄々とまるで他人事のように肩を竦める。その頬を雨粒が伝って流れ落ちた。
階段の先はレジスタンスの拠点である。占領軍に迎合した臨時政府を良しとしない人々の集まる場所。彼らがドーバー海峡を渡ってイギリスで抵抗運動を続けようとしているという噂は聞いたことがあった。

「フランスを――祖国と恋人を――捨てて逃げろと? ……冗談じゃない」
「そういう言い方するなよ。降伏した手前、俺はパリから離れられないけど、は大丈夫だから」
「……なんで。確かにここに居たって役には立ってないけど、わたしは亡命してまでっ……」
「なんでって、うーん、できれば察してもらえると嬉しいんだけどなー」

夜に馴染んだ私の黒髪をさらりと一房手に取り、優雅な動作で口付けるフランス。寒々とした空気と傷だらけのわたしたちに似つかわしくない所作に、胸が潰れそうだった。安穏と暮らしていた日々が恨めしく懐かしい。わたしは昔も今も空恐ろしいくらい大切にされているのだろう。
二の句を次げずに、わたしは唇を噛んでつま先を見つめた。頭上から労わるような声音が降ってきた。

「大丈夫、お兄さんは強いんだから」
「……信用できない」
「ひでえの。 ホントだって、の生まれる前には欧州敵無しと言われたもんさ。今はほら、ちょっと神様の指にペンだこ出来てるっていうか」
「馬鹿なこと言って……」
「少なくとも」

彼は有無を言わさぬよう人差し指でわたしの唇に触れた。その指に促されるままに顔を上げた。

「君がフランスに戻ってくるときまでなんとか生き延びられる程度には強いぜ?」

彼は酷く華やかに笑っていた。例えるなら、ヴェルサイユでの舞踏会で見せるそれのような。わたしは涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、無理やり笑みを作ってみせた。

「……そんなの、弱いと同義語じゃないの」

いつのまにか雨は上がっていて、けれど陽光を遮る厚い雲は晴れない。それが逆に肌寒さを感じさせて、わたしは一歩だけフランスに近づいた。少しだけ背伸びをして、その首に腕を回す。温度のない腕に抱き締められるのを感じた。わたしはそっと呟いた。

「avec toi」

触れ合った唇だけがささやかな温もりを留めていた。




すこしだけ強いあなたに


(もっとわたしを愛してよ!さまへ。ありがとうございました)
2style.net